いかめしちゃん日記

いかめしちゃん日記

自我も真我の中

ないもの


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去年の秋におそるおそる始めたこのブログ、1年が経ちました。

ブログ始めて良かったなと思います。

やってみると、言葉って思いを表す道具として十分でないな、とか

それを補う文章力がもっと高いといいんだけど、とか思いますが。

ないものは仕方ないですね。

 

 

さて

音楽をやってる次女が、先日珍しくやる気を出して、オンラインのライブバトルに参戦しました、

母は嬉しかった。

しかし予選通過ならず。

 

予選はいけると思ったのにな、、結果を知ったあと連絡は取っていないけど

きっと落ち込んでいると思うと可哀想になってしまった。

 

でも次女の方は、翌日からいつも通りのツイートをしています。

表面的な元気さかもしれませんが、とりあえずよかったです。

 

 

私たち(宇宙系:カルマ軽い人)は、

地球のメインゲームである、努力⇨達成⇨成功⇨実績 が苦手です。

 

私自身は、出生が宇宙系でカルマが軽い人であると知っています。

カルマが軽いことのメリットデメリットも理解していて、

子供たちも同じような出生だろうとわかるので

いまでは、子供たちが現実で立ち往生しても「ま、そりゃそうだよねぇ」となります。

 

 

私の場合、努力は空回りして良くない方向に進みがち

いわゆる努力と根性で耐えて進んでも、その先には何も無いらしいです。

 

実は、私も実績ってものが欲しかったな。

地球独特のシステムにマッチしないのが残念ではある。

しかし自分が残念な人とは思っていないです、ないものは仕方ない。 

 

とりあえずは、叶わない自己実現に振り回されることも人生と、次女を見て思います。

 

 

次に、大好きなバンタンのことを。

私がBTSを知った頃には、すでに大きな成功を手にしていましたが

グループの過去を遡ると、大変な量の努力があることはすぐわかりました。

 

だから、彼らを讃える声には

「すごく努力した」「すごく苦労した」「不遇の時代を乗り越えた」

という切り口がたくさんあります。

 

私は、ここを褒め称えることに若干違和感を覚えます。

なぜ引っかかるのか、自分でも不思議だったけど、今日ふと気づきました。

「苦労」を称賛することに引っかかってるんです。

努力 と 苦労 は違うもの、とも思います。

 

苦労を重ねてここまできた、と、ドラマチックなストーリーがあった方が応援を得やすいです。

みんなでする苦労は楽しいところもあります。

そこがバンタンの魅力なのも、わかる。

バンタンを 苦労の人 と称賛することで、自分の苦労を肯定できるのもある。

 

ついでに言うと「バンタンはみんな配慮ができてる」って褒める人は、配慮に価値があると思う人かな。

 

とうのバンタンは「あなたが自分自身を愛するために、BTSを利用してください(RM)」の旨のことを言っているので、

どんな投影をしてもオールokなんですよ。

苦労でも、努力でも、配慮でも。

 

ただ私は、こういったことを常に要求されたら、息苦しいなと思うのです。

 

どなたも、努力が出来るならしたらいいと思う。

努力できるのは才能だよね、私にはないので羨ましいです。

 

実際、バンタンの努力は素晴らしい、本当に。

 

でも、苦労の方は、もういらないのではないかな。

言い方を変えれば、頑張りの強要はいらない。

誰にとってもいらないと思う。

 

苦労をよしとするのは、もう終わってほしい、私はそう願ってます。