道(タオ)
ー去年の夏頃までの自分を振り返ってー
真我を探求することだけがすべてと思っていた、
私にはそうとしか思えなかった。
私の心のうちは、ただ【真我】に至りたい。
できるならいっそ山にこもって、探求に費やす日々が欲しいとも思っていた。
私の欲は、その方向に向かっていた。
そんな私がずっと疑問だったのは
・なんで体があるのか
・なんで生きるためには最低限やらなければいけないことがあるのか
・なんでいろんな体験して楽しんだ方がいいって設定があるのか
・自我・煩悩・執着は捨てろと言いながら、なぜ最初から付いている、なぜ取れない設定になっているのか
こういったことが全くわからなかった
いっこうにわからない、理解できなかった。
真我であるためには体はいらない、私である必要もない、
最終的には、梵我一如なのに。
私は当時、この疑問を何回も何回も口に出して言っていた
でも大体の人は、現実の三次元が重要と言っている。
「楽しまないともったいない」「バランスだよ」と耳に入るけど
答えは見つからない。
苦しかった、
私には重要に思えない三次元、
現実を楽しんで上手く生きられない自分は、劣等生なのか
重要なことを重要と思えない欠陥なのか
現実から逃避したいだけなのかと。
真我 対 現実 をバランスせねばと、シーソーに乗せて考えたりしていた。
重要とは思えないことを、楽しまなければならないなんて、やれやれだった。
さて‥‥
物事にはタイミングがあるので、これらのことはやがて腑に落ちるときがくる、
それが昨年の秋からの気づき。
気づいた事柄というのは、前々から見聞きしてたことだった。
むしろ聞き慣れたことばかりだった。
しかし、本当にわかるようになるには時間がかかったということ。
それらは、ちゃんとわかるようになっていたんだな、、
なんて素晴らしい。
体を生きるというのは、真我そのものではなく、自我である。
自我を捨てる行為さえも、自我がすること。
でも、自我は真我の中にある。
自我も真我の中。
そして今でも、梵我一如が重要なことに変わりはない。
まだわかっていないことは、これからわかっていくこと。
私はまだ、道の途中。