全部あって全部ない
毎度まいどの自己探求ですが、 少し前までお疲れ期でした。
わたしは常に探究せずにいられない性質だけど、波はあるよね、たまに疲れちゃうよね。
わたしのいまの旬は、ジュニアーニ? 知覚派? アドヴァイタ? と言われるものかな。
そこで言われることは
「ただすべては沸き起こり消えていくだけ、針の先端に迫り続ける、常にそこに留まる」
これはわかるのです、それは全くその通り。
ここで重要なのは [ただ真我至福] であること。
そしてやっぱり思うのが、それだけでいいのかなぁ、自分だけが至福に留まっても、なんかなぁ…。
[真我にある] を突き詰めると、
感覚・感情が不要だし、実際に目の前に起こる事柄には意味がないし、体はないし、わたしもいない。
だが、生きていれば実際はそう簡単に右から左に流せないことばかり、流す [だけ] でいいとは思えなくて。
意味づけは自分の好きなようにすればいいのだけど。
なにより、自分だけが幸せでもやっぱり不完全なのです、わたしには。
こんなふうに、毎回毎回ちゃぶ台ひっくり返し論が自分のなかで繰り広げられる。
いまの時点でのわたしが微かに思うのは、真理真我にありながら実際の体を生きるしかないということ。
感情と感覚めちゃ使う。喜びや悲しみもあるってことで良い。
困ってる人もわたしの一部。そしてわたしはない…みたいな。
どっちかだけ、どれか一つ、ではないんだよね、どれもある。
・執着は捨てて、かつ執着して生きていこう
・わたしなりに生きて、そっと人を支えていこう